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思うこと [日記・雑感]


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ここにこんな内容を書くべきかどうかためらいがありますが、
実名を公開していませんから、自分自身の日記として書こうと
思います。

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2009年に父が亡くなりました。ガンのために徐々にやせ細り、
枯れ木のようになって、ある明け方にふっと息を引き取りました。
2005年の発病以来、通院や介護のためにかなり多くの時間と手間を費やして
いましたから、完璧ではないにせよ手を尽くしたと思っていました。
しかし、しばらくの間はちょっとしたことで涙が流れ、
「もっと優しくできたのではないか」という悔悟の念に責められました。
親を亡くした世の中の大人たちが、みんなこんな思いを抱えながら
生きていることに、このときほど心を打たれたことはありません。

そして、今回は母親です。きっかけは些細な転倒でした。
しかし、骨がもろくなっていたために大腿骨骨折というたいへんな怪我と
なりました。

手術自体はうまくいったのですが、術後身体機能が一気に衰弱して、ほとんど
食事も出来なくなりました。運良く今回のヤマ場を乗り切ったとしても、余命
はさほど長くはないだろうと思われます。
これからこのプロセスに向かい合っていくことになります・・・・


「グリーフワーク」という概念があるようです。
悲しみを受け入れて、失う痛みや環境・状況の変化を受容していく過程を意味
している言葉です。

これを意図的に実践していこうかと考えています。
しかし、本来、これは人が自然に行うものですので、意図的に行うべきなのか
どうか自分でも少々迷いがあります。

つまり、グリーフワークとは状況の受容・新たな出発のプロセスですから、
その人なりのペースで進行するのが望ましいはずです。
決して最短速度で効率的に癒やされることに価値があるとは考えられないからです。

それでもなお、意図的に実践していこうと考えたのには理由があります。
元福島大学経済学部教授の飯田史彦氏の提唱する「生きがい論」に出会った
からです。

「人は死んでも終わりではない」そして、「人は生まれ変わる」という仮定を
受け入れれば、生きていくことが楽になると、飯田氏が、価値観論として発展
させたものです。

人は死んでも見えないだけで存在はしている。したがって、自分が死んだとき
には肉体を離れた存在として再会できる。だから、「これでもう二度と会えな
いのだ」という思いを抱く必要がない。

「死とは、永遠の別れを受け入れることである」と考えている人と比較すると、
グリーフワークは明らかに楽になります。
永遠の別れとなると、それなりの覚悟が必要ですが、この仮定ならば一時的な
別離に過ぎません。

すなわち、重要なのは、真実であるかどうかではないということです。
この場合、事実としては誰にも証明できないからです。
そうであるなら、いずれを信じるかだけの問題だということです。
価値観だけの問題なのです。

だとしたら、各個人が自分の意思で選択すればよいことです。
そこでわたしは楽な方を選んだわけです。

何しろ、外れたところで、そのときには自分自身の存在はないことになり、
外れたことを悲しむ必要がありません。(笑)
逆に、「永遠の別れだ」と思い込んでいたとしたら、外れたとき
「余計な悲しみを味わった」と後悔することになります。

この一点だけでも、ゲーム理論で言うところの「絶対優位の戦略」です。
たった一つの仮定を受け入れるだけで可能になるところがすごいところです。

スピリチュアルな考え方でありながら、わたしのような通俗的な人間にも妙に
しっくりくるのです。

悪ぶった表現を書き連ねてしまいましたが、真意はご理解抱けるのはないかと
思います。

毎日病室に通い、スプーンでおかゆを母親の口に運んでいるのですが、
この考え方になってからはいくらか気持ちが楽になってきています。


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